日光街道てくてく旅 ① 日本橋~千住大橋

mitake Post in 日光街道を行く
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いよいよ始まりました、日光街道てくてく旅。てくてくというくらいですから然徒歩での旅です。およそ140キロ先の日光東照宮目指して、春本番を迎えた江戸は東京の日本橋をスタートです。

「道」の起点とされる日本橋、欄干にしつらえられた銅製のライオンが見守る中、夫と記念写真を撮り合って6時半さあ出発です。

東京に60年住んでいて、なんと日本橋を徒歩で渡ったのは初めて!とりあえず今日は千住までの8.7キロ、山坂アップダウンを歩くわけではありませんから、寄り道しても3時間から4時間の行程、レッツゴ―!

「日本橋魚市場発祥の地」の記念碑のモチーフは竜宮城の乙姫様だとか。間もなくして三越の重厚な建物が。正門脇には三越を象徴するライオンが、金看板も頭上で威光を放ち、往時の威勢が垣間見られます。

 

 

その先にはフルーツの千疋屋と、一流店が連なる宝町を通りぬけると、昭和通りに面して製薬会社が連なり、系列の会社が軒を連ねる傾向というちょっと面白い発見をしました。こじんまりとした宝田恵比寿神社に手を合わせ、日光までの旅の安全を願ってパチパチ!

ホテルギンモンドの植え込みには「旧日光街道本通り」と刻まれた道標が立てられ、「徳川家康公江戸開府に御際し、以後大伝馬町と称された」と印字されていました

7時過ぎには人形町を通過、横山町にいたる一帯は繊維会社が軒を連ねます。浅草橋まではあとわずか、あたり一帯問屋街の風情が漂っています。

日本の商業を支える町並みを抜けると、隅田川に架かる浅草橋が見えてきました。「郡代屋敷跡」の立て看板には、江戸初期以来、関東・東海地方の行政を司った郡代屋敷がこの辺りにあったとか。年貢の徴収や、治水、領民の紛争処理に関わったということで、区役所とか市役所みたいな所だったのでしょうか。郡代はさしずめ区長か市長さん?

浅草橋って本当に橋があるんですね、私はたんなる地名と思っていたんでちょっと驚きです。歩かなければ分からないままでした。

隅田川の流れに浮かべられた数十艘の屋形船が、船溜りに係留され、眺望する柳橋方面は朝靄にいささか霞んで見えます。

 

浅草寺へはあと一息、ここであることに気付いたんですが、先程来、「小伝馬町」「鞍掛橋」「馬喰町」「厩橋」「駒形橋」とやけに馬に関する名前の交差点が連続していて、その名の通り往時は、馬に鞍をかけ直したり、厩があったりtと、きっと馬を乗り継ぐところがあったんでしょうね。

総武線を潜ると駒形橋、橋の袂には創業二百十年と銘打った、「駒形どぜう」のアンティークな建物が。「江戸文化道場」「どぜう汁」と江戸文字が踊り、そういえばどぜうというのをまだ食べたことがないなあ。

そんなことを考えながら歩を進めると、一気に視界が開け、墨田方面に東京新名所となるべく工事が着々と進むスカイツリーが現れました。リバーサイドの高層マンションも見えてきて、いよいよ浅草です。

雷門が視界に入ると、見慣れた風景にほっと安心します。7時半になろうかというところで、当然仲見世はどこもまだ開店前。と見ると、空模様が少々心もとないこともあって、傘屋さんが店開き。外国人の方がきれいな柄の傘を買われていました。

縁起によれば、浅草寺の開山は628年とされていて、1400年近い歴史があるわけです。何故このお寺がかくも賑わう寺となったのかと言えば、徳川家康翁が500石を与え、幕府の祈願所としたことが大きかったのではと想像しますが、、。

只今浅草寺は平成本堂大営繕に入っていて、ご本堂には龍が描かれた薄黄色の布がかけられ、ほの暗い本堂内陣のご本尊に向かい静かに手を合わせます。

境内にはつい見過ごしていた五重塔も。それにしてもこんなに人のいない浅草寺を見るのは初めて、五重塔前に人っ子ひとりいない情景と言うのも驚きの体験です。

日本橋を出発してから1時間半、8時を過ぎたところで朝食を摂るべく開いているチェーン店の喫茶店へ。ホットツナトーストはなかなかいける味でした。

さあ後半戦開始、東武浅草駅からは通勤の人々が続々と出てきて、街はいつもの賑わいを見せ始めてきました。ここからは日本堤を北上していくことになります。

赤いボデーに緑の屋根の愛らしい小型バス「めぐりん号」が通り過ぎていくのを追うように、下町風情漂う街並みを三ノ輪に向けて歩いていきます。道はグッと狭まり浅草とはだんちの静かさ、一葉桜の道路標識が見えると吉原大門です。

 

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、、」早逝の女流作家樋口一葉が、1895年に発表した吉原一帯を舞台にした小説「たけくらべ」の冒頭の一節です。

一葉が下谷竜泉寺町に暮らしていたのは一年にも満たない期間でしたが、吉原遊郭そして貧しさとの戦いという背景により、一葉の中に眠っていた小説家という才能が、一気に開花したのでしょう。

一葉記念館へは平成18年11月リニューアルオープンの折に訪ねていて、今回もてくてくルートをそれることになりますが素通りは出来ません。

記念館周辺には、一葉せんべい、一葉泉と名付けられた浴場など、いまだ衰えぬ一葉人気にあやかるあれこれが

記念館で一葉箋を数冊買い求め、街道へ戻り返し「新吉原衣紋坂 見返り柳」の石碑をチェックし、残り僅かとなった千住大橋への道を進みます。

   

頭上を高速道路が走る南千住の交差点からは、素盞雄(スサノオ)神社の社が見えてきました。「行はるや鳥啼魚の目はなみだ」と詠い、松尾芭蕉が奥の細道へと旅たった千住に相応しい句碑が立てられた境内。

参拝後、千住大橋は間もなくの距離でしたが、夫が買い求めた一葉せんべいを頬張りながらしばし休憩をとることに。

千住大橋が見えてきました。いよいよ「日光街道てくてく旅」第1回目の終点が近付いてきました。隅田川を渡っていると、護岸の塀に「おくのほそ道 旅立ちの地」として、芭蕉翁が弟子の曽良と旅立つ様子が描かれています。浮世絵もペイントされた川べりで、しばし墨田の川風に身を任せます。

京成千住大橋駅手前、創業百年という佃煮屋鮒金さん発見。こちら全国佃煮コンクールで優勝したという老舗。イカのあられ、エビ鬼がら焼き、アミ等買い求めて駅へと向かいます。

5時45分大井町の自宅を出発、千住大橋駅着11時15分。約5時間、およそ18000歩の「第1回日光てくてく旅」でした。

第2回は千住から草加まで、およそ8.7kmの予定です。

2010/04/28 記

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

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