GM4月秀作 「百合の香」石井誠子

mitake Post in 文章教室, 秀作
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家の中に生花を絶やさぬ友人を知っている。突然伺がっても、季節の花が活けられていて、そこはかとない香りを放っている。そのような習慣がなかった私はいつも感心していた。

下町で育ち、遊び場の路地には不揃いの植木鉢が置かれ、所狭しと 花が咲いていたが、私の家では飾る環境になかった。その頃は両親も若く家に仏壇もなかったからかもしれないが、子沢山で食べることに精いっぱいだったのだろう。

結婚してからは何かの記念日に買ってくる程度で、それも大抵は大ぶりの花瓶にポンと入れるだけだった。それでもそのまま枯れるまでという訳にはいかず、毎日の水替えや花々を整えたりで、その手間暇を考えるとど、どうしても必要な時だけの花となってしまっていた。

ところがここにきて、夫が仏様になり花が欠かせなくなった。「島忠」の花は月曜日の午後に新しいのが入荷すると聞けば足を運ぶといった具合に、夫が逝って変わったことの一つは、こうして部屋に花が常にあることだ。この頃では買った日に誰かが持って来てくれたりすると、狭い我が家は花畑状態になったりする。

先日も夕方近くに、実家のお義姉さんがわざわざ赤羽から来てくれて、白百合の入った大束の供花を持って来てくれた。二日三日経つと香りが部屋中に満ち溢れ、朝な夕なに疲れた私の心を慰めてくれた。

そんなこともあって、供花は死者だけのものでなく、残された者にも安らぎを与えてくれるものなのだとしみじみ感じ、アロマセラピーの効用を身をもって体感している。

折あるごとの花は薬や言葉以上のものがあるのだと、花より団子的思考で日常を優先してきた私にとって、遅まきながら新しい発見をした気分になっている。

 

寸評 八十歳のお祝いをしたばかりだというのに、たった三か月の闘病で他界されるとは、、。供花が残された者に安らぎを与えてくれることに気付かされたという件に、胸を突かれる思いです。日常生活では到達しようのない感想でしょうね。絶えることのない花の中で、故人は石井さんをきっと見守ってくれているはずです。

 

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