福興しだるま

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東日本大震災で地震、津波、さらに原発事故で甚大な被害を被った福島県沿岸地域、震災から三年余、いまだ自宅に帰れず避難生活を送る方々、また仮設住宅で不自由な生活を送られている方々が多数にのぼります。

復興のシンボル「復興だるま」 

福興のシンボル「福興だるま」

厳しい状況下、それでも前を向いて立ち上がる人々にエールを込めて、福島県いわき市在住の美術家山本伸樹氏が、福島県の復興のシンボルとして「福興だるま」を制作しました。私もいわき市で生まれた者として、微力ながら「福興だるま」の販売をお手伝いしようと、当店店頭に展示しました。

緑の縁はエコロジーを、全体に魚影の模様をあしらい、お腹には金色で稲穂と笹の葉が描かれ、福興の文字を配しています。目の周りは希望を込めて紅色です。

 

いわき市在住の美術家山も伸樹氏が制作しています

いわき市在住の美術家、山本伸樹氏の制作です

「復興」にかけて「福興」としているところなど気配り十分です。

皆さん、どうかこの趣旨をご理解いただき、「福興だるま」へのご支援をよろしくお願いいたします。

なお、売上金はすべて山本氏を通して福島県の復興資金として寄付されます。

 

平成26年4月24日

文章教室 4月秀作 石井誠子「笑顔」

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寸評 戦争世代にとって、壕は記憶を呼び起こす材料になるようです。そこから母上と兄弟たちとの疎開生活、実家への疎開の心苦しさ、母上のじっと我慢の想いが、今母上の年代に差し掛かり理解できるという話はよく分かります。政治への一言もチクリという範囲でいいですよね。最後の花畑のばばとの触れ合いがうまく書かれています。

文章教室 4月秀作 平澤幸子「ひなの日の一日」

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グループM 平成26年2月 秀作

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一年の計

石井 誠子

正月も過ぎ、冷蔵庫にお節もなくなった頃、私の誕生日十一日が来る。

子供の頃は特別祝ってもらうこともなく、気が付いたように母が「そうそうあんたは今時分に生まれたんだよ」などと他人事のように言っていた。

その頃は私もそんな誕生日の迎え方が当たり前と思っていたのか、寂しいとも感じなかったが、親になってこの方、娘たちには大げさなほど祝ってやっていることを思うと、本当は寂しかったのかもしれない。

さて今年七十五歳になる私は、孫や娘たち夫婦から「おめでとう」と祝われ、嬉しくも面映ゆい時を過ごすのが習わしとなった。そして来し方行く末を思い、いくつかのことを自分に約束するのだ。

良い俳句を創りたい。卓球もうまくなりたい。気ままな旅にも出たい。夫に優しい妻でありたい。そう、十二月の作文で書いた老支度もやらねばと、数え上げたらきりがない。

しかし一番の課題は、大人になりきれぬ自分であることだ。詩人の谷川俊太郎は「自分に潜んでいる子どもを怖れず、そこからエネルギーを汲み取れるようになれば大人になれる」と言っている。

自分の中の受容できない沢山のものを、自己否定や傍観で終わらせてしまうのではなく、ありのままの自分を深く見つめていくことで少しは大人になれるのかもしれない。

七十五歳にしてこんな青臭いことを言うのも恥ずかしいが、これもエネルギーを思えば希望が持てる。遅きに失した感があるが、自分に納得できる年の取り方をしたいものだ。

七十五歳の大人の文章ですね。著名人の言葉の引用は難しいんですが、いいタイミングで引用していますね。力みのない味わい深い文章です。

 

 

六月の旅

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文章教室 9月の秀作です
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《寸評》
この旅は娘さんの誕生日記念の旅であると同時に、嫁入り前、独身最後の母娘の旅ともなりました。湯浅さんにとって思い出深い旅となったことでしょう。湯浅さんおめでとうございます。 

 

 

憧れの野辺山宇宙天文台

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夏の一日、八ヶ岳山麓に広がる野辺山高原を訪れました。信州方面が好きで、年に一度は足を運びます。車が清里道路に入ると、周辺は高原のたたずまいに変わり、こじゃれたペンションや牧場などが点在するようになります。何とコスモスも咲き出していて、立ち寄ったお寿司屋さんで聞くと、日中は暑いけれど、朝夕は涼しいくらいだとか。暦の上では立秋も過ぎましたし、コスモスが咲きだすのも不思議じゃあないですよね。

今回野辺山を訪ねた一番の目的は、「野辺山宇宙電波天文台」へ行き、最大45メートルのパラボナアンテナ群を見学することでした。なんで今急にパラボナ?いや急にではないんです。もう二十年前くらいに『山へ帰った猫』という物語を読んだんですが、それ以来この天文台を訪ねたいと思っていたんです。そう、パラボナ群の絵と、茶トラ猫ルーの絵に、すっかり心惹かれちゃったんですね。

今回パラボナアンテナの実物を見て、その大きさにただただびっくり!見上げていると頸が痛くなってきます。しかもしばらくして、ちょっとした高台からパラボナアンテナ群を眺めたら、何と角度を変えて動いているじゃあないです。あんなに大きなものがちょっとの間に動いちゃうなんてびっくりです。

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パラボナに似せた広場に寝そべり、高原の風に吹かれ、宇宙と繋がるパラボナ群を眺めていると、日常のこまごましたことなど本当に小さなことのように見えてきて、、。

ただし残念だったのは、物語の主人公茶トラ猫のルー君に会えなかったことでしょうか?物語では仕様がないんですけど、、。
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日々を大事に

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私の原風景

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兄との別れ

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新緑が美しい季節、緑色は心を癒してくれる。今日は梅雨入り前の五月晴れで、汗ばむほど、、。

紫陽花の花の蕾が日一日と大きくなり、早いものは少し色づいている。そんな季節の中、四月に旅立った兄の納骨と四十九日の法要が営まれた。

私は生後一年八か月で父と死別し、十歳年上の兄が父親代わりをしてくれた。高校へ行くとき結婚するとき、兄の世話になった。時には厳しくされて、亡き父を恋しく思ったこともあった。

母が亡くなった後は、母に代わりどうしているか心配して度々上京してきた。体も声も大きく、病気に負けるような人ではなかったのだが、、。最後は一週間ばかりの入院で、家族に迷惑もかけず静かな旅たちだった。

兄は十八歳で少年兵に志願し母を悲しませた。横須賀の海軍学校で終戦を迎えた。毎年のように戦友会があり、とても楽しみにしていた。また戦友をとても大事にしていて、体調の思い戦友がいると、どこまでも出かけて行って見舞っていた。

その仲間も昨年はとうとう二人になってしまったと寂しそうだった。その一人も無理してきた様で、来年は無理だろうと話していたが、兄も今年は出席できなかった。享年八十七歳だった。

お酒が好きだった兄だったので、今頃は戦友と黄泉の国で、大きな声で再会を喜び、杯を交わしていることだろう。

寸評 私も父を一歳半でなくしていて、全く記憶がありません。お兄さんを思う気持ちが込められた、鎮魂のメッセージですね。

2013/06/06 記

鳥ぎん自由が丘店閉店

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また一つ馴染みの味がなくなりました。四十年来親しんできた、焼き鳥と釜飯の店「鳥ぎん」自由が丘店が、五月いっぱいで四十年来守ってきた暖簾を下ろしました。

鳥ぎんの味を知ったのは中学生の頃、当時銀座に務めていた姉に、銀座鳥ぎんへ連れて行ってもらったのが最初でした。結婚して品川区に住み、年に二、三度は自由が丘店へ出向き、焼き鳥、釜飯、モツ煮込み等を堪能しました。

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店の方たちともツーカーで話が通り、特にオーナーさんは大の犬好きで、犬のいる生活を長くしてきた私とバッチリ話が合い、しばし犬談議に花を咲かせたものです。

鳥ぎんの焼き鳥はタレが濃く、でもそれが私にはぴったり合い、東急大井町線で十分ほどの自由が丘へ出かけました。鳥ぎん以外にもモンブランのケーキや光街の散策等楽しめる自由が丘は好きな街でしたから、出かけるのにしんどさはなかったんです。都心に出かけるわけではないので、あまり服装を気にしなくてもいいのが出かける要因でしたね。

閉店の理由はいろいろあるようですが、一つには後を継ぐ人がいないということが大きな理由のようですね。お疲れさんでしたとオーナーさんに声をかけ、店を後にしました。ご馳走様でした!

 

2013/06/01 記