日光街道てくてく旅 ③ 

草加~せんげん台

奥州街道を制定し伝馬を伴う宿駅を義務付けた家康、1596年の制定ということですか

ら、街道は400年以上に亘って多くの旅人や町衆が行き交い町を作ってきたんですね。

さて「第③回てくてく旅」のスタートは草加、7時過ぎに草加に着き、いざと歩き出

した途端、何と夫がデジカメにメモリーを入れ忘れるという、チョービッグなミス!やってくれますね~。

家から駅までの間ぐらいでしたら戻って取ってくるところですが、いかんせん家から電車で1時間も来

たところでのアクシデントでは、対応のしようがありません。私がこんなミスをしたら、、。

午前7時では商店はどこもまだ開店前でシャッターが閉まっていますし、コンビニも数軒のぞきました

がアウト!もう諦めるしかありません。幸い私がしっかりとメモリーを入れたデジカメを持ってきてました

ので何とかセ~フ!

天気予報によれば今日は晴天で気温も25度くらいになるとか、ちょっとした夏日模様、

早めに行動しないと。

平日の朝7時過ぎの草加駅、間もなくラッシュアワーにさしかかるところで、勤務先へ向

かう人々が黙々と改札を抜けていきます。私たちは人波を抜けて、前回の終着地点へ向

かいます。

街道を定め宿駅制度を定めたのは家康ですが、沼を埋め立てたり茅原を開き道を作っ

ていったのは大川図書という方だと史実には残されているとか。

そうそう草加という地名の由来は、茅(草)原を刈り道を開いていったことに

よるそうで、な~るほどと合点がいきました。

一里塚を過ぎると、宿駅があった名残がまだまだ残る草加には、風情ある佇まいの旅

館や本陣跡も残されていて、歴史探訪は歩いてこそ、ですよね!

ただし草加は二度の大火に見舞われていて、最古の町並みは明治以降だとか。それで

もそこかしこに往時の面影が感じられる草加の宿、名物の草加せんべいのビッグオブ

ジェも登場して楽しませてくれます。

中興の祖である大川図書の墓所がある東福寺までくると、国道4号線が綾瀬川沿いに

続く松並木と並行して通っていて、芭蕉十哲の一人で、芭蕉に付いて奥の細道行に同

行した曾良の像が。

松並木の入り口には江戸を振り返るような佇まいの芭蕉像が見え、私も同じポーズで

立ってみます。芭蕉さんはどんな思いで遥かな奥州への道を歩み始めたのでしょう、ふ

っとそんな思いが頭を過ります。

関東郡代伊奈半右衛門が綾瀬川を整備した折に植えられたという松並木、草加松原と

して市民に親しまれてきたとか。学生たちが自転車を飛ばし、犬連れの方々が散歩を

楽しみ、ランニングやウオーキングに精出す人々など、思い思いに松並木を利用されて

います。

木組の太鼓橋には参勤交代する大名行列が描かれた石盤が埋め込まれ、

通行を楽しませてくれます。また、日本文学研究家で芭蕉研究者のドナルド・キーン博士の記念植樹

のコーナーもあり、傍らには「月日は百代の過客にして、、」という芭蕉の名句が刻ま

れた石碑が立てられています。その先には百代橋と名付けられた木造の橋も。

松並木が途切れ草加宿と分かれると、間もなく新田駅の道標が見えたところで、綾瀬川

に架かる蒲生大橋を渡ると蒲生の一里塚。黄色い前垂をかけた七体の石仏と犬それ

にお坊様の石像が、ひっそりと並んで旅人の安全を見守っています。この一里塚、埼玉

県内で唯一現存する一里塚

だとか。

川を離れ、この辺りからはひたすら車道と並行して伸びる日光街道を、てくてく歩く単調

な行程が続き、暑さも加わって点在する旧跡などを訪ねるのもパス。

その上、この期に及んでまだデジカメのメモリーにこだわる亭主殿、電気屋さん等の看

板をみつけては、どんどん道を逸れていってしまいます。

そうして大回りしながら、宿駅の名残を残す越谷に到達。さらに北上して北越谷も越え

て行く頃には、東武伊勢崎線が見え隠れする下間久里地点に。ここまでくれば今回の

終着点せんげん台

は間もなくです。万歩計は21000歩を数え、歩行距離13キロ、4時

間半に及ぶ道のりを歩いていました。

2010/05/20 記